自由:森羅万象への感動と受容が要

肉体(遺伝子)に支配されない真の自由とは、放漫にあるのではなく、向上への努力のみにあるのでしょうか。御教示下さい。

まあそういうことになるだろう。 しかし「向上への努力」というと、いかにも猛勉強するようなイメージがついてまわるが、必ずしもそういうことではない。心楽しくしているだけで、向上は可能となるからである。 「努力」という言葉が何とも重苦しくのしかかってくるものだが、この場合の努力とは、より心性に問うことが重視されるのである。 決して、見せかけ的な行を指すのではない。 宗教で言う努力となると、どうしても滝行などの荒行が浮かんでくるのであるが、行はそれだけではない。 それに、私が見てきた限り、その種の荒行をやっている人物に、決して優れた人を観ることがないのである。 確かに、意志の強さや何より体力が評価されるところではあるが、宗教性にとって、最も重要視されるところの純性は必ずしも養われないということである。 この純性こそが、「向上への努力」の真の姿であるのだ。 決して、座禅を組んだりしていること自体を指すのではない。 だから、あなたがある程度の境地に達したならば、坐禅瞑想よりも、日常的に生活していたり、遊びなどを通して、より明確に物の本質に出会うことになるだろう。 その心のあり様こそが、純性であるのだ。 その時にこそ、真の自由が自覚されることになる。 とはいえ、いかなる境地に達しようとも、この肉体を我々が持つ以上、やはり限界があるものだ。 自由とはその意味で、あくまで心という主観の中でのみあり得るということである。 それ故に、古より、聖人たちは死を喜んだのである。 たとえ、横死であっても超然としていたのはそのせいだ。 真の自由とは、真の智慧を獲得して後、この肉体を去るときに味わえるものである。 その時まで、今は、心をより純化することに努めなければならない。 それは森羅万象に対する感動に他ならない。 超然とした生死観を持ち、単に物事に動じないのではなく、その一切を受け入れる度量が問われるのである。 およそ「善人」に、この理は解されないのが壁である。

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