人間の器:丹田と嫌な人物の修行とバカと成れれば大いに大器なり

先生の御話に器ということが出てきましたが、「器」とは、つくることができるものでしょうか。

幼少の頃、大半の子は恥ずかしがり屋だったり、人見知りだったり、人前で緊張したりしたものである。 ところが、四十代、五十代になってくると、その同じ人物が良くも悪くもふてぶてしくなり、小さい頃なら言い返せなかった子が、いまや堂々と言い返しているのである。 十歳の子も五十歳になると皆、器が大きくなっているものだ。 十歳の時は、ちょっとからかわれただけで泣いていた子が、五十代では誰にも何も言わせないだけの風貌へと変身していたりもする。 実に皆、逞しい。 それは、明らかに、器が大きくなったということであるのだ。 子はいずれ親になる。 親になった途端に女は大きな器を手に仕始める。 より大胆になり、恥じらいも薄らいで、生きることに力強さが増すものである。 子を孕むことで、器が大きくなったのである。 学生時代、無責任に生きていた者が就職し、責任を負わされることを常としているうちに、だんだんと自信を身につけ、誰からも一目置かれる人物へと進化していく様はよく見かけるものである。 明らかに器が大きくなった姿である。 あなたも、親になった、前と後では変わったと思うことだろう。 子を受け入れる分の腹(器)が大きくなるのである。 器に善悪はない。 だから、一般人よりもヤクザの親分の方が、余程、器が大きいと言うことが出来る。 概して、サラリーマンより、経営者の方が器は大きい。 またまじめな人より、一度は常軌を逸して軌道修正した人の方が、器は大きいものだ。 自分の考えと正反対の人間を受け入れる事が出来る人は、出来ない人より明らかに器が大きい。 それは、天地の差ほどに大きいものである。 誰しも過ちはある。 失敗もある。 愚かな言動だらけである。 ところが、その一つでも指摘されると烈火の如くに怒り出し、私は間違っていない!と言い返す人がいる。 女に多い。 指摘を素直に認め改善する人は器が大きいが、指摘されて認めるも陥り後退する者の器は小さいのである。 認めない者よりも性格がマシというだけに過ぎない。 厳密には、器といっても一つの点のみで判断出来るものではない。 自分の過ちは認められなくとも、度胸があるのは、ない人よりも器が大きいと言えるのである。 器とは心を入れる容器に過ぎない。 大きい器であってもそこに入っている心が汚れていては、価値がない。 それどころか世の害毒となりかねない。 あなたが、霊的進化を求めるならば、器と心の質を同時進行で高めていくことが大切である。 心の質とは、素朴さ、優しさ、正義感、勇気、精進する意識等によって高められていくものだ。 これら全てに、スパイスのように深みを出し、大海のように一切を中和させ包み込んでいくのが、智慧であるのだ。 智慧を得ることは至難だが、器を大きくすることは決して至難ではない。 訓練によって、いくらでも大きくなるものである。 その方法としては、昔から丹田呼吸が伝えられている。 特に武息の呼吸は、強靱な精神力を与えてくれるようになる。 それは、とりも直さず、器が大きくなったことを意味するのである。 器にこだわるならば、先ずは胆力をつけることである。 呼吸法が一番である。 次に、嫌いな人物を受け入れることである。 どんなに丹田呼吸を身につけても、嫌いな人物を受け入れることの出来ない人物に、器が大きい者はいないのである。 それは、丹田にエネルギーを集中させるのが上手になっただけのことで、器が大きくなったわけではないからである。 だから、この両者を同時にやれるようになることで、器が大きくなったか否かの判断とすると良い。 更に、バカになれたら大したものである。

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