宗教と救い:自分を深く見つめる為の基準は

仏教では救われる為には自分で修行して悟りを開くか、あるいは仏様や菩薩様にすがって念仏を唱えなくてはならないと説きます。またキリスト教ではイエス様を信ずれば救われると説きます。新興宗教では自分が救世主であると説くような所さえあります。「私はこれを信仰して救われた」などと言う人もいますが、どのような宗教なら救われるのでしょうか。それ以前に、そもそも宗教で本当に救われるものなのでしょうか。宗教には救う力というものが、本当にあるのでしょうか。(学生 20代)

真の救済は自分自身の中にこそありて他に求めるに非ず

答えは「否!」である。 あらゆる古今東西の宗教とそれに類するものに、真の救済を提供仕得るものなど存在しない、というのが真理である。 では、宗教は不要かと言えばそうではない。 宗教なくして、人類の進歩も安らぎもなかったこともまた事実だ。 それは、科学が人類にとって必要だったように必要だったのであり、決して特異なものでもない。 古代から中世に到るまで宗教とは科学以外の何物でもなかった。 デカルトの思想以降、それらが明然と二分化していき、今や宗教は科学によって否定されるまでに到っている。 しかし、真実は、今日も自然を破壊し、世界中で医療過誤による殺人が行なわれている様に、その科学も試行錯誤の産物でしかない。 それが科学的とやらの実態でしかない。 運命学を非科学的と言って譲らない哀れな科学者が「それなら私の心の中を当ててみろ」と言っていたが、科学で当ててから言うべき台詞で、何とも非科学的論理で、彼らを見ていると正に哀れになる。 その一方で、全くの無条件で凡ゆる迷信を信じる愚者もいる。 どっちもどっちの世界である。 こう言うと「自分は一つの宗教を信じて他の迷信は信じない」と言う人もいる。 その人にとっては絶対の真実でも、相対的には只の無知な者に過ぎない。 では、宗教はなくて良いのだろうか。 否!それは科学が必要なように必要なのだ。 人類が心の安らぎを求める限りにおいて、それは必要なのである。 しかし、必要ということと、絶対的救いは一致しない。 一部の欲求者を除いて、絶対的な安心を求める者など皆無であり、人は単に表面的な心の安らぎを求めているに過ぎないのだ。 それを指して、宗教的救いと呼ぶには語弊がある。 しかし、そこに宗教的救いを感じている平均的庶民がいることも事実だ。 宗教団体が成り立つ所以がここにある。 たとえば、仏教が説く自力による悟りも、仏教的修行法に限ったこととは言えず、要は、本人の極めて個人的な心的深さ次第というのが真実である。 それは恰も、武術の才を持った者がたまたま空手を選んだから空手が人類最強と呼ばれるようなもので、もし、その才人がボクシングを選んでいたらボクシングが世界最強となるように、仏教に據ったから悟りを開くのではなく、その求道者の才覚の深さに起因するものでしかないのだ。 その前提の許に、単に仏陀が如き人物が何らかの宗教を用いただけのことでしかないのだ。 彼が、宗教ではなく、科学の手法を用いて悟りを開くことだってあり得るのである。 要は、当人の霊的深さ以外に拠り所とする所はないということである。 キリスト教にしても、処女降誕に始まり、嘘のオンパレードの教団であるが、嘘も信じることで安らぎとなり、信者の精神の安定に役立つのならば、それはそれで価値があると言わなければならない。 所詮はその程度のものでしかないということである。 人々にとっての救いとは、「いま」が「楽」になることに他ならない。 病気が治る、人間関係がうまくいく、金運が良くなる-といった俗なる欲求は、改善の心理作用を齎す宗教的行為や心掛けによって、満たされる人が出てくるのだ。 それは所謂心理学で言うハンマーシュラーク作用による個が内在させている潜在能力に過ぎないのだが、人は、それを宗教の力と思い込むのである。 確かに、守護霊等の力が加わることはある。 しかし、その基本を成すものは、本人自身の力に他ならない。 その力を発揮させるのに、宗教は必ずしも必要ない。 ただ人は宗教を信じることで、安易にその心理状態を作り易い故に、宗教を求めるのだ。 勿論、弱さ故の拠り所としての存在は大きい。 人間の観念や概念を離れて神は存在する。 だが宗教は相対的価値以上のものではない。

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