神と逃避:「私には神様がいる」と逃げてしまいます
問
辛い時、寂しい時、孤独を感じる時などには、「私には神様がいる」と逃げてしまいます。それでよろしいのでしょうか。(主婦 46歳)答
透徹した信仰こそが克己の支柱となり得ると覚られたし
良いと言えば良いし、悪いと言えば悪い。 対症療法的には良いということであるが、決して正しい行為とは言えない。 人間は誰しも、辛い、寂しいといった感情を持つものであり、一生の間には、幾度となく、その様な感情に支配される時があるものである。 それは、自然であり、人間の成長にとって、必要不可欠な時と言わねばならない。 もし、生まれてこの方、この様な感情に一度も支配されたことがない人がいたら、それは稀有であると同時に、哀れであると言わなければならない。 通常、この種の感情に襲われるのは、幼少から青年期にかけて多く見られる。 それは、多感な時であるからであるが、何より周囲からの理解が得られない事に因る所が大きい。 仮令、孤独に陥っていたとしても、その事自体が必ずしも辛いこととは言い難く、人によっては、却って自由になれる場合すらあるのである。 寂しさにしても、その感情の中に浸ることで、「感傷主義」を楽しむことが出来る。 それによって芸術作品が創出される動機となった例は多い。 その意味で、孤独も寂寥も魂を輝かさせる一つの条件と言えなくもない。 少なくとも、神様に逃げるほどの事ではない。 一方、辛い時となると話は別だ。 この感情の辿り着く先には、自殺が存在する。 誰にも頼る所がなく、また、解決策が見出せず、自分の未来が描けなくなった時に、人は自殺へと思い到るのである。 その様な時にこそ、神を求めるべきである。 もし、そうすることで、心が安らぎ、自殺へと到らなくてすむのであるならば、大いにそうすべきだ。 しかし、もとより、自殺へ到るほどの辛酸でないとしたならば、神へ逃げるには早すぎる。 誰にも頼れなかったとしても、自分の強さを頼りとすれば良いのである。 自身の内に眠れし強さを、この時こそ引き出して、確と頼ってみるのである。 人は、その様にして強くなるのだ。 その過程が、成人への道であるのだ。 そう簡単に神に逃げるべきではない。 何を以て辛いと言うのだろうか。 真に辛いというのは、絶望感に支配された時である。 人は、人生に夢を抱いて生きているものなのだ。 その辺りのいかにも平凡な主婦にだって、何かしらの夢があるのである。 その質の高さは全く問題にならないことであるのだ。 人は、誰であれ、将来や目前の願望へ向かって生きているのである。 それは必ずしも表面の意識で自覚されている必要はない。 無意識に於いて、何らかの願望が求められていれば良いのだ。 それは非現実的な事でも何ら支障はない。 形而上でも形而下でも、どんなに幼稚な事柄でも良いのだ。 人は夢があるから生きていられるのである。 そして、その夢を心底から喪失した時、即ち絶望した時、如何なる人物も死を考えるようになるのである。 それ故、夢が見出せる限りに於いて、その辛さは未だ自己制御の内にあると考えなければならず、そう簡単に神に逃げるべきではないのである。 古今東西を問わず、信仰とは常に神に逃げることを示してきた。 誰しもが、辛い時にその逃げ場所として、信仰を求めてきたのである。 しかし、正しい信仰とは、その様なものではないのだ。 正しい信仰とは、自我を離れて存するものであって、遥かに純粋な心理である。 常に前向きで、剛い意志が介在している。 果たして、斯くが如き信仰を持ち得ている宗教人が、この世に如何程いるのかは、寒々とするばかりである。 神は偉大なり、と回教徒はよく口にする。 この理解や感情では、自己の欲得心に支配されるしかなく、遂にはテロにまで走る蒙昧さを見い出すだけだ。 実に日常の喜怒哀楽を超越し、無我による透徹した信仰だけが、真なる克己の支柱となり得ることを、自覚せねばならない。