因縁因果:正しき信念を持ち精進せよ
問
実践御指導『悦びの行』の時のお話で、因だけで果が生じるのではなく、因があって縁が出来、はじめて果が生じるという主旨のお話がありました。縁が生じるか否か、縁が生じるのが遅いか早いか、又、果を結ぶまで縁が継続するか否かは因の強さによるのでしょうか。
答
因縁因果の法則の基本は簡単だが、現実に表出していく時には、かなり複雑なものである。
そのため、善人が即善人として評価されることがなく、悪人が即悪人として評価されることもないのである。
例えば、あなたが、この場で暴飲暴食をしたとしよう。
およそ常識では考えられないだけの量を口にしたならば、あなたは間違いなく、その直後に腹をこわし、腹痛なりに襲われることになる。
この場合の因とは暴飲暴食であり、果とは腹痛である。
厳密には過度の食欲望が因だ。
この両者を結んだのは目前の飲食物である。
広義には、その「場」であり、その「時」であるということもできる。
縁とはそのような働きをするものをいう。
因が果に変わる為の「時」の成熟と言ってもいいかもしれない。
こう考えると、実に単純であり分かりやすい。
だから、暴飲暴食をしなかったら、腹の激痛に襲われなかったということも明然と理解できる。
だから、このような場合には暴飲暴食はしないという理性なり価値観を身につけていたならば、苦しい果を生じさせないですんだことになる。
つまり、この場合は、本人の意思の弱さが異常食欲の因を生じさせ、その結果として大食し、苦痛という果を生じさせているのだ。
ところが、そのような因も、実はそれ以前の行為なり欲求なりといった心作用に影響された果としての現象としても捉えることができるのである。
例えば、何か不愉快なことがあって、それを解消するためにヤケ喰いをしたといった類である。
このように、因は往往にしてそれ以前の果として作用し、果は、その次の因として作用していくのが一般的である。
そして、その両者を結ぶ役目として、縁と呼ばれる作用が介在するのである。
人と人とが出会う時のことを考えると分かりやすいが、そこには何かのきっかけがあって、始めて知り合いとなるのである。
もし、そのきっかけが介在せずして知り合いになるのであるならば、我々は全人類のことを知っていることになる。
だが、実際は、限られた、きっかけという名の縁が生じた者同士のみが、知り合うこととなるのである。
では、この縁とは何であろうか。
前述の如き、その場やその時を作り出すものとは何か。
それは、相互の心作用である。
相互とは、人と人、物、事など様々な形で現われてくる。
例えば、A氏の車とB氏の車が、道路上で出くわし、正面衝突したとしよう。
全くの他人同士が、ある日突然、このような出会いをするのは何故か。
そこには複雑な因縁が存在する。
その大半は、前世からの縁に依るものである。
一部例外的にそうでない場合もある。
簡単に、これらの因縁を理解すれば、自動車事故となる何らかの因子を今生なり前生で作った2人が、その果を果たすために、お互いに全く認識しない所で、ドライブすることを決め、その結果として引き付け合い、事故を生じさせたということになる。
この引き付け合う力が、縁であるのだ。
だから、Aという人物がいても、Bに相当する人物が存在しなかったならば、A氏に因はあっても、縁が生じることはなく、その果は先延ばしということになるのである。
しかし、これとて、実はA氏にそうさせるだけの良き因縁が作用しているものなのである。
次に、努力に対する成功というものを考えてみよう。
誰しもが体験したことのあるものだ。
ところが、努力したにも拘わらず、成功しなかった人が大半である。
これは、例えば成功という果が100という数値で表わせるとしたならば、1回の努力は1という数値みたいなもので、これが100になって初めて、成功という果が出現するのである。
たとえ99まで努力しても、未だ果は現われてくれないのである。
つまり、因子はある一定量を満たした時に、初めて縁を生じさせるのである。
その結果、人や物との縁が生じ、具体的な楽果を得ることになるのだ。
だから、あなたがいう「果を結ぶまで縁が継続する・・・」という表現は誤りである。
正しくは「果を結ぶまで因子が継続する・・・」となる。
だから、善き果を早く得たいと思うならば、善き因子を大量に作り続けることである。
質の高い果を得たい者は、因子即ち善き思惟言動も、そのようでなければならない。
そしてその因とは、即ち、心である。
あなたが不幸であるならば、それなりの原因があるのである。
自分を善人と盲信し、それらの現実を否定する者は愚者である。
しかしまた、来生に偉大なる成功を収める者は、今生で誰よりも辛い思いをしなければならないのも法則である。
正しき信念を強く持ち精進することだ。