気付き:理も情も真実なるものは心の浄化に因る
問
人は色々気付き気付かされながら生きていますが、その気付きの中には自分勝手な気付きが多く、間違いを生じている場合があるように思うのですが、時には美しい気付きがあり、その美しい気付きによって神様に導かれていくように思います。
その美しい気付きを一杯にしていく為に、素直でありたいと思い、自観法に頼りたくなるのですが、それでよいですか。
答
そう。確かに人の気付きというものは、実に勝手なものである。
また、同じ事象に出遭っても、その時感じる気付きは、人によってばらばらで、決して一様ではない。
しかし、その様な気付きであっても、その気付きこそが、その人をして日常から非日常へと脱皮させる、大きな力となってくれるのだ。
そして、それ自体が、また日常へと化していくのである。
気付きは大切である。
この現象を多くするためにも、人は常に、心を澄ませていなければならない。
自身に問い続けていなければならない。
「我はこれで良いのか」「我は何者であるのか」「我は如何に我を捨てるのか」「純粋とは何か」「生きることは何か」「真実とは何か」「愛とは・・・」
常に常に、自己の本源へ向かって、真摯(しんし)に問い続けている人間こそが、多くの気付きを生じさせてくるのである。
同時にそれは、行動が伴なうものである。
空理に堕すことなく、人生の実践者として生きている者のみが知り得る気付きでなければならない。
感情や価値基準(観念)から離れたものでなければならないのである。
理も情も、真実なるものは、心の浄化によってのみ生じ得るのだ。