哲学と現実:実践へと移せて初めて哲学の妙味があり。言行一致を心掛けよ

私は、「哲学」は、現実的、身近、日常の中にあると思っています。電車に乗っていても、歩いていても、楽しくても悲しくても、どんな中にも哲学はある。うまく言えませんが、生きていくことイコール哲学していくこと、と思っています。日々の中で哲学を深めていくということは、「本質」真理に向かう事につながっているのではないかと思っています。一方、哲学というものはそもそも現実離れしたものだと言う人もいます。哲学とは現実離れしたものなのでしょうか。

日本人は学問としての哲学を好まない傾向にある。
それに比して西欧に於いては、実に多くの哲学(思想)が花開いた。
カント、デカルト、ハイデッガー、ゲーテ、ショーペンハウエル、・・・古くはソクラテス、プラトン、アリストテレス、ターレスなどなど、名前を挙げ始めたらキリがない。

彼らは言語としての理解を最重要と考え、あらゆる事を言語として分析し、その本質を究めようと思考の限りを尽してきたのであった。
しかし、それは、偉大であったと同時に、限り無く言葉戯びに近いものでもあった。
この種の哲学は、論理学に分類出来るものであって、その内容が、我々が期待する所のものであるか否かは全く関係ないのである。

ある一つの命題について、考えられるあらゆる視点からそれを解析し、そこに一つの共通性即ち法則性を見出そうとするのである。
それを真理と呼ぶのである。
西洋哲学はその思考の豊富さ(饒舌さ)という点で秀逸である。
だが、往々にして戯論に陥り易く、その実を伴なわないものが多い。
何より、その饒舌さに比して深みに欠けるきらいがある。
にも拘わらず、その言語体系に不慣れな日本人は、哲学というだけで尻込みをする。

一方、歴史的に、日本人が親しんで来た哲学といえば、仏教・儒教・老荘思想である。
これら東洋哲学の特徴は、西洋と比較した時に、圧倒的に寡黙である。
更に、直観を以て悟ることが要求されている。
儒教は論理的であると同時に、『大学』などは修身が説かれるなど実社会に直接的に関わってきた内容であった。
『老子』に至っては、極めて神秘的であり、西洋哲学の観点に立つと、分析が欠落した欠陥本であった。
それ故、西洋では東洋に哲学はないと喧伝されていた時代もあった。

だが、我々東洋人は、西洋哲学の底の浅さに逸早く気付き、数千年に亘って読み継がれてきた四書五経(論語、大学、孟子、中庸、易経、詩経、礼記、書経、春秋)及び老荘、更には膨大な量を誇る仏教哲学を通して、正に真理と真正面から直接的に触れ親しまされてきたのである。
東洋の哲学は、西洋の言葉戯びと違い、現実を直視したものである。
言うならば、生きた哲学である。
いかに自分の人生に於いて実践するかが問われているものであった。

それは、西洋人にはない東洋人ならではの修行精神に他ならない。
我々は生まれながらにして求道者としての資質を備えられていたというわけだ。
その結果、西洋人が成し得なかった人格の向上、深い境地という特殊な世界へと入り込むことが出来たのである。
仏教修行などというのは正にその典型中の典型である。
また、一般社会に於ける武士道精神などは、世界にあって稀なものであった。
世界中、どこを捜しても、宗教を離れて道徳規範が語られた試しはなく、しかも、如何なる宗教よりもその統一性と自律性の高さに秀れた士道の存在は、正に、東洋人、否、日本人の質の高さを示すものであった。

さて、あなたが言う哲学とは俗に人生哲学と呼ばれるものである。
それは実に、東洋哲学が示してきた本質の実践哲学に他ならない。あなたはその意味で正しいのである。

哲学には現実離れした数学的、論理学としてのものがある。
これはこれで価値ある学問である。
しかし、何より優れているのは、生きた哲学に他ならない。

要は、あなたの哲学も、私の哲学も同じ視座に立ってはいるが、その見ている所が異なるだけの話である。
深浅の差こそあれ、日々、自己を見詰め、物事の本質を見出そうとするあなたの心掛けは、実に勝れている。
要は、頭の中の哲学を、見た目の哲学へと実践に移すことが重要である。
言動の一致せざるは哲学を有するとは言い難いからだ。

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